March 2024

雪は降りつもり朝はまだ来ず完全な森の静寂をはじめに破るものは何
凍った湖面がとかれるとき待ち焦がれたように青い波が岸辺に寄せる
いくつもの流れに洗われてゆく朝の川の小石のような石鹸を鏡の前に置く
太古の春を思いつつ木の枝に満ちるマグノリアの花を母と見る
黄色い初蝶はおおきなあたたかな春風にあおられて目を回す

February 2024

わたしは泣いてはいなかった凍った湖上の風景は自ずと霧に暈けながら
枝葉を離れる花はかがやく吹雪となりやがて澄んだ風になり
恋人はどこにいるのだろう白雲に紛れた雪渓の硬質な光を見抜く
雲に空いた穴から半月がのぞき込んでいるわたしは目を擦る水底の魚
赤子の寝息を聴くように焼きたてのフランスパンに耳を寄せる母

January 2024

曇った銀器の中でただ一所磨かれたように飛騨の雪渓が鋭くひかる
風の吹くほうへ倒れて眠る枯れ草たちの色も名前も織りかさねつつ
闇の奥から雪の結晶がただよい落ちる家の軒まで宇宙があふれて
還俗の僧侶らのように静かに山を下る雪解け水がさざ波を連ねて
けむる水面はなみなみと息づいているこどもがひとり湯船にいると

December 2023

ゴルトベルクの響きが止んで蝋燭から立ち昇る永い煙を仰ぐ
蛤の二片をそっと合わせれば離れた半身をひしと懐く
叢に沈めた重い角を持ち上げて牡鹿はふたたび夜を歩く
波を立てずに湯船を去る白髪の老女の背中はうつくしい
なぜそこが帰る場所なのだろうどこも似た森の一角を恋う

November 2023

青い海のほとりに立つ白無垢の花嫁はただ色として美しく
榊と檜の葉を敷いた初牡蠣を空にしてにわかに命がのりうつる
紅葉黄葉の森に一点の暗いトンネルを見つめるうちに冬
冬の衣をまとえば雪虫も白い半纏を装う待ち合わせたように
老女の古今をゆき交う話にきき浸るうち山間の湯はあふれて減らず

October 2023

八ヶ嶽の山麓をやさしく踏みゆく痩身の雲の家族らの歩み
夜深く見惚れる水晶の珠はとめようもなく床へ散る
ふれられはしない蜻蛉たちを散らしつつ枯草の辺をゆく
金の稲穂の蜻蛉が消えたと思えば手の甲にいる
相方のひらく水尾のなかを静かに静かについてゆく鴨の夕暮れ

September 2023

褐色のビロードのあげはが扇ぐ朝の風はつめたい
身廊を辿りながら神父が教会の灯を消していく森は宵闇に沈む
楡の木はすべての葉先に至るまであふれる黒い噴水になり滴る
まだ飢えていることすら知らない新月の若い牙が空を噛む
朝の谷底から空へ湧き立つ虹にも生家があると知る

August 2023

いつまでも真昼の円虹に見入るひとほどかなしい眼をもつ
山の上には雲の故郷があるのか夕べの丘をのぼりゆく
白百合の眼に斑らな光が落ちて何も見えないように笑う
静かな音楽のなかに赤ん坊の泣き声をきく里は盆
麻のシャツにそっとすがる糸蜻蛉はおなじくらいさびしい

July 2023

みずからの光に白く透けた林をゆく月は未だ散歩している
日暮れの湖の底に古い村を思うとき一匹の魚が飛び跳ねる
窓の外で時折なにか白いものの降る夜は言葉を忘れる
澄んだ大気には羽の轍が残るのか二羽の鷺が山麓をなぞる
樹上へ舞い上がる二羽の白鶺鴒は版画のように重なる

June 2023

空の薄氷が剥がれ落ちて瘡だらけの瑞牆はきれい
ひざに蓮華躑躅をこぼして雪の高天原は微笑む
光は無色に思えども障子を閉じた川辺の室はまみどりいろ
硝子の文鎮のような水塊が蓮の葉を押さえて震える
なみだの縁の岸辺のようなガーゼタオルの柔らかさ