海へ

だれでも、一度だけ死ななければならない
無数の時間と同時にこれはある

不安は絶えずともにあり、消し尽くすことはできない
同時に、安らぎも常にそこにある

顔を見ることができない人々のために、目を閉じる
目を閉じてあなたに触れる
時にはその方がどんなにか近く、わたしたちは抱擁する

知っている、船の縁に立つあなたの向こうには
夜の海がある
わたしの思いが一歩でもあなたを追い抜いたら
そこには限界か、無限しかない

吹き荒れる風のなかで
あなたは言った、かもしれない
「どこかで幼い灯台守の目が見張っている
「この海の広さはいまも広さのままだ

こんなにも
ちいさなものを
愛するために
はげしい風になり
野を吹き降りるほかない
あなたに耳を塞がれながら
草の根に満ちてゆく
ささやかな言葉のために
春のあいだ
わたしは黙っていた

chess

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駒たちはみんな
力を尽くして戦いましたが
囲まれるわ
〈騎士〉は飛んでくるわで
もう、なにがなにやら!

え?
わたしが〈女王〉ですって?
戦に勝ったらどうなるのでしょう
郷へ帰れるのでしょうか?

castling

盤の目は
草に覆われ
駒たちは安らかに
昼寝している

しずかな庭の
どこかに
〈王〉を隠している

苔生して
眠れる〈塔〉の前に
おそれながら立つ

stalemate

光と影が
刺し交わす
秋の森で

ふたりの兄の
じっと睨む
象牙の盤

わたしは草の上
倒れた駒たちと
梢から降る金の葉をみている

桜三篇

夜桜

ごうごうと
煮えたぎる
春の弁天池

よざくらは
笑い止まぬ
麗しきひと

嗤い嗤われ
わが恋は
死ぬ

春来

鴬色と
さくら色
美しいのは
どちら

交ざり合うて
御茶ノ水
川辺に迷う
純情の子ら

波紋

風止んで
水面をうつ
何の気配も
ありはせぬ

おそらくは
見えぬ魚が
ひるがえしたのだ
銀の背を

春を過ぎては
どこへもゆけぬ
午后の沼

夏至祭

丸花蜂

ヴェロニカのはしごを
のぼったり、おりたり
丸花蜂のいそがしさ
千まで花を数えたら もう日ぐれ。
妖精のまつりへ 飛んでいく。

ひまわり

ひらくまえから、
運命のひとをきめている
ひまわりの ながい睫毛。
夕べには 影もながくて
夏至のまつりにさそったけれど
しあわせそうに 夢みてた。

夜明け

夏至の宵も明けるころ
ひそかに 別れゆく小径
白葡萄を踏むときには
この前肢もてつだいましょう。
ほほえみながら 四足けものにもどる
あなたはどなただったでしょう。

人形

夜の
どこかで

野茨が
散っている

ただそれだけを
おぼろに感じる

つめたい
白い陶器のなかで

しだいにおおきく
あかるくなる

月は
満ちたの?

バビロン

くもが空に巣をかけてる
鳥は瑠璃色に失神してる

くもは鳥をあやしてる
赤ん坊のように
鳥はめざめて飛び回る

バビロンの空中庭園で
くもはハンモックでひと眠り

緑のばら

木々の向こうから
だれかが呼ぶ声がする
つぎつぎに咲く
ばらに見入ったふりをして
わたしはいつまでも答えずにいる

ここにいるわと言ったとたんに
あなたは消えてしまうのでしょう

水の底には
緑のばらが咲きつづく

秋の森は
ばらばらの
鍵でいっぱい
指に
ひろった
音を聞く
奏でられ
なかった
ミューズの
腕骨は
脈絡のない
単音の
うつくしさで
満たされる

月日

筆が遠くなってしまいました
「元気です」と方々に手紙を書きたいのに
途切れることのない月日のなかに
深く聴き入って
長い楽章の途中で席を立つことができない人のように

梢を流れる雲
太陽のめぐり 時の鑿の音 そのなかにひそむ
ひとつの響きを

それが遠ざかり消えてゆくのなら
最後まで聴きもらすことがないように

近づいてくるのなら
それが呼ぶ一瞬に
答えそこねることがないように